国道脇に花壇がある。
雑草ばかりが生えた花壇に目を向ける通行人は居ない。
実際には気になる人もいるのだろうけど、私にはわからない。
ある日の朝、その雑草をせっせと抜くおばあさんがいた。
花壇の脇にローラーが付いた台に座って抜いている。
誰とも目を合わせることもなく、ひたすら雑草を抜いている。
雑草の他に空き缶やゴミもあるようで、雑草を入れる袋と空き缶が入った
不燃物用の袋も置いてある。
誰かに頼まれたのか?それとも委託されているのか?自主的なのかは分からない。
夕方、気になって同じ道を通ると雑草は減っていた。
翌朝も、その次の日も黙々と雑草を抜いている。
楽しそうにも、辛そうにも見えない。
ただ、淡々と雑草が抜かれていくことで、雑草だらけだった花壇の土が見えるようになった。
土だけの花壇に興味を持つ人が何人いるのか分からないが
少なくとも私は、この先の花壇に花が咲くと嬉しいなと思うようになった。
これが❝徳を積む❞ということなのかもなと思う。
徳を積むとは
徳を積むとは「見返りを求めず、良い行い・正しい心のあり方を日常で重ねること」と
以前、父の納骨をしている日蓮宗のお寺の住職から教えていただいた。
- 人に見せるためにじゃない
- 損得勘定はしない
- 誰も見ていない場面ほど徳は積まれる
と言われていた。
徳にも「陽徳」と「陰徳」がある
【陽徳】:みんなに見える良いこと
「陽徳(ようとく)」とは、隠さず積極的に行い周りから感謝されたり評価されたりする徳業のことです。
- 困っている人を助けて「ありがとう」と言われる(ぼらん
- ゴミ拾いをして他の人に褒められる
- 寄付や募金をする
【陰徳】:だれにも見られない良いこと
「陰徳(いんとく)」とは、見返りや評判を求めない隠れた徳業で、陰徳を積んでいると、巡り巡って良いことが訪れるという教え。
- 落ちていたゴミを誰も居ない時に拾う
- 人が気づかない場所の掃除やゴミ拾い
- 困っている人を密かに助ける
これからすると、日蓮宗の住職が言われていた徳とは陰徳のことなのだろうと思う。
でも陽徳の行為であっても、感謝して貰いたくてしてる訳じゃないようにも思うけど、、、
「あなたのことを思ってしてあげたのに、、、」
この言葉だけだと確かに❝徳を積む❞ことにはつながらないように感じる。
でも、その気持ちも分からないでもない。
良くなるようにと考えて起こしてくれた行動やアドバイスは、とてもありがたい。
では、なぜ❝徳を積むことにつながらない❞ように感じるのだろう?
「○○してあげたのに」の一言がモヤモヤを生む
「○○してあげたのに、、、」には、考えてくれた優しさや心配を感じることは出来る。
でも、「してあげたのに」と言われてしまうと、それに何か応えなければならないような気がしてモヤモヤした気持ちが残ってしまう。
何かに応えるって、どうすれば、、、と思うし、時には責められているような気になったりする。
責められて良い気になる人は、たぶんいない。
これだと、せっかくの行動が逆効果になるように感じる。
責めている行為に気づいた時、気持ちが悪いというか複雑な感じにもなる。
行動してくれた方も、して貰った方も双方ハッピーになれるのが❝徳を積む❞ことなんだろう。
そっと寄り添うことに似ているような気がする。
花壇に空き缶やゴミを捨てるのは徳を捨て損を積むこと
雑草が伸び放題の花壇。
ここに空き缶を捨てても目立つことは少ないかもしれない。
しかし、空き缶を捨てる時って心に何か心に引っかかる。
チクッとするような、悪いなというような変な気持。
これが徳を捨て❝損を積む❞行為の表れなのだろう。
チクッとする気持ちを大切にしないと
いつのまにか徳を捨て続け、損ばかり積むことになるかも知れない。
そっと嬉しいなと感じさせてくれる人が❝徳を積む❞のだろう

花壇の雑草を抜いていたおばあさんの徳は陽徳?それとも陰徳?
私は陰徳のように感じる。
実際のところ、おばあさんがどのような気持ちで花壇の手入れをされているかは分からない。
通行人など気にせず、淡々と雑草を抜いて綺麗にしているおばあさんが、何かを周りにアピールしているようには感じない。
横を通る人は、気に留めているようにも感じない、声を掛ける人もいない。
私もその一人。
しかし、脇を通る私には「花が咲いたら綺麗だろうし嬉しいな」という気持ちにさせて貰える。
まだ先になるだろうけど、綺麗な花が咲く光景を想像しただけで、なんだか嬉しい気持ちになる。
それは、きっと私一人ではないだろう。
道行く人をそのような気持ちにしてくれるおばあさんに、何か良いことが起こってくれたら
嬉しいなと思う。

